【真実?】知らないうちに人を選んでいる話

心理系

こんにちは、takamasaです。

SNSを見ていると「誰か〜」とか「誰でも〜」などのような不特定多数を指すような言葉を見たことはありますか?

その時に「その誰かというのは、もしかするとそれは自分も含める?」と考えたことがあるかもしれません。

今回は、その言葉に関するエピソードから気づいたことを書いていこうと思います。

あえてその言葉に乗っかってみたら、、、

学生時代、自分がSNSを始めたての頃のことでした。

ある日SNSフォローしている人(全く絡みの少ない人)が「誰かと話したいから話したい人メッセージよろしく」とSNSで投稿していました。

自分も話したかったので、思い切ってメッセージを送りました。

そしたら、、基本的に一言しか返してくれなく、自分が一方的に質問をしているだけのようにも感じてそれ以降自分からメッセージを送るのをやめてしまいました。

後から分かったことですが、そのフォローしている人とその友達との絡みが明らかに楽しそうな反応だったので、結局のところその友達と話したかっただけなのでは?と見えてしまいました(それと同時に自分のコミュニケーション能力の低さに非常に悔しかったです)。

過度な期待はしない方が安全

そもそもなぜ話したい人(特定の人と何かをしたい時)と直接話さずに「誰か〜」と表現するのか?

本当に誰でも良かったのか?誰でも良いけど合う人だけ?など、その表現をそのまま受け取れるケースもあれば、言葉だけ見るとそうだけど実は本音は違うようなケースもあるでしょう。

その背景を知らなかった学生時代の自分は、コミュニケーション能力の低さだけでなく空気の読めなさのダブルパンチで心がやられてしまいました。

今を思えばその言葉に期待しすぎなければ、最初から知っていればこうはならなかったかもしれません。

ですが、最初の段階で全てわかることなんて稀だと思いますし、無知の自分を責める必要もありません。

そう思う人もいるということを念頭に入れた上で、言葉の表現というものについて考えましょうという自分に対する戒めを込めて今日書かせていただきました。

今回は以上です。ここまで読んでいただきありがとうございました!また次回もお楽しみに!

前回の心理記事:【親近憎悪】自分と近しい、親しみやすさがあるのに嫌う理由?

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