こんにちは、takamasaです。
子どもの頃に親や学校の先生などの大人から説教をくらった経験はありますか?
やってしまったことをすごく指摘されてめっちゃ落ち込んだり、なんだアイツとイライラしたりと当時はあまり良い感情になることはさほど多くはなかったかもしれません。
そんな時に「言われるうちが華」なんて言われても理解できないし下手すると説教を正当化しているようで不快だと思う方もいるのではないでしょうか。
じゃあ逆に説教をしなくなるということはどういうことか?を今回は考えてみたいと思います。
理解させようとするのを諦めた(もう相手は手遅れだと判断した)
説教する人の視点で考えてみると、今までこっちから色々世話しないと相手が良くならないと心配する思いでしてましたが、何度も説明しても相手は理解してくれないところから「あ、この人に言っても何もわかってくれないし自分が疲れるだけだからもう言わないでおこう」と思うようになって説教しなくなる、という流れでしょうか。
ただよく考えてみると、説教する側としては「あなたのためを想って」とアドバイスしているのに対して説教される側は「おせっかいだしこいつうざいな」とすれ違いが起こるのもまあ自然なことだろうなと思いました。
その状態のまま説教をしなくなると説教される側は「ようやく言われなくなって解放された」と思うようになって、あまり説教に意味を感じなくなることが予想できます。
説教する人される人お互いに必要なことって何?
説教するまたはされることはエネルギーを消耗するしストレスにもなるからこそ、むやみやたらに説教なんてできないわけなんですよね。
かといって説教しないとなると説教する側の責任問題に問われますし、物事の良し悪しがつかなくなって生活に問題が起きることもあるかもしれません。
そうならないためにお互いに必要なことって何でしょうか?
いくつか考えられるものとしては信頼、扱い方、タイミングの見極めです。
見ず知らずの人から1時間もいきなり説教されたらおそらく耐えられない上に内容も入ってこないと思います。
さらに無意識に相手をダメな人として扱うこともプライドを傷つかれて怒りや悲しみに捉われてそれどころじゃないとか思ったりするかもしれません(そんなこともわからないの?とかこの歳になってそれがわからないのは恥ずかしいとか、、、)。
あと説教するタイミングもかなり重要で、メンタル不安定状態の説教ほどしんどいものはないと思いました(下手すればトラウマにもなったりするのでしょうか、、)。
意識することはなかなか簡単なことではないかもしれませんが、こうすることで少しでも説教の意味を見出せたりするのかななんて思ったりしていました。
この記事を書いている時ももしかすると説教っぽくなってたりするのかなと心配になっていたりした今日この頃でした。
今回は以上です。ここまで読んでいただきありがとうございました!また次回もお楽しみに!
前回の心理記事:【疲労】やることを後回しにするとどうなるの?
コメント